「推し活」は究極の自己表現?「好き」を通して見えてくる自分らしさ

「推しはいますか?」

そう聞かれて、少し考えてしまう人もいるかもしれない。

アイドル、俳優、ミュージシャン、アニメのキャラクター、スポーツ選手。あるいは、映画、作品、ブランド、動物、場所、食べ物。いまや推しの対象は、ずいぶん広くなった。

そして私は最近、「推し活」という言葉について考えることがある。

推し活は、本当に誰かを応援する活動だけなのだろうか、と。

もしかすると、誰かを推しているようで、私たちは「自分の好き」を表現しているのではないだろうか。

推し活をしている人を見ていると、不思議なことに気づく。

推しの話になると、その人は驚くほど饒舌になる。

「この衣装が好き」
「この曲のここが好き」
「この表情が好き」
「この作品の世界観が好き」
「この人の考え方が好き」

そこには、その人自身の価値観が詰まっている。

何に心を動かされるのか。

何を美しいと思うのか。

何に憧れるのか。

どんな物語に惹かれるのか。

推しを語ることは、実は自分を語ることなのかもしれない。だから、推しを見つけることは、自分の「好き」を見つけることでもある。

そして、推しにはもう一つの力がある。

言葉を届ける力だ。

同じ言葉でも、誰の口から出るかによって、その重みは変わる。一般の人から言われても、なかなか心に響かなかった言葉が、知名度のある人や推しの言葉として届くと、すっと心に入ってくることがある。

つまり、何を言うかより、誰が言うか。

「頑張って」と言われても、頑張れない日がある。けれど、推しが同じ言葉を口にすると、「もう少しやってみよう」と思える。

それは、言葉そのものに特別な力があるからではない。その人を好きで、その人の歩んできた道や姿を知っているからこそ、その言葉を自分ごととして受け取れるのだと思う。

だから推しは、ただ「好きな人」ではない。ときに、自分を動かす言葉を届けてくれる存在でもある。

推しができると、行動が変わることがある。

ライブに行くために遠くへ出かける。

推しの衣装をきっかけにファッションを変える。

推しが使っている香りを試してみる。

作品の舞台になった街を訪れる。

推しがきっかけで、新しい趣味を始める。

推しのために始めたことが、いつの間にか自分のための経験になっている。

これは、とても面白い現象だ。

推しは、その人の人生を直接変えてくれるわけではない。

けれど、

「ちょっとやってみようかな」という最初の一歩をくれることはある。

その一歩が、新しい場所へ連れていってくれる。

新しい人と出会わせてくれる。

知らなかった音楽やアートを教えてくれる。

推し活とは、推しのためだけに時間やお金を使うことではない。

その先に、自分自身の世界が広がっていくことでもある。

もちろん、推し活にはお金がかかる。

チケット、グッズ、遠征、コラボ商品、ファンクラブ。

経済という視点から見れば、推し活は大きな消費行動だ。けれど、推し活を「何に、いくら使ったか」だけで語ってしまうと、大切なものを見落としてしまう気がする。

そのお金で、誰かは久しぶりに遠くへ出かけた。

そのチケットがあったから、誰かは友人と再会した。

そのライブを楽しみにしていたから、つらい一週間を乗り越えた。

その作品に出会ったから、新しい音楽やアートに興味を持った。

消費の向こう側には、必ず体験がある。

そして、その体験は少しずつ記憶になっていく。数年後、グッズを手にしたときに、その日の景色を思い出すかもしれない。あの曲を聴いた瞬間、ライブ会場の空気がよみがえるかもしれない。

推し活は、モノを買うことだけではない。自分の人生に、記憶を増やしていくことでもある。

推し活には、正解がない。

「推し活はこうするもの」というルールなんて、本来は存在しない。

誰かと比べる必要もなければ、使った金額で推しへの愛情を測る必要もない。

そして、ファン歴の長さを競う必要もない。

好きという感情は、もっと自由でいい。

誰かを好きになること。

何かに夢中になること。

美しいものを美しいと思うこと。

心が動いた瞬間を大切にすること。

それらはすべて、自分の感性を守る行為なのではないだろうか。

誰かを推しているようで、私たちは自分自身の感性を表現している。

だから私は、「推し活」は究極の自己表現なのかもしれない、と思う。

シンプルに、自分の心が動いたものを「好き」と言えること。

それこそが、自分らしく生きるということなのかもしれない。

ハラカズコ

メディアライター

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