今年のフジロックとサマソニは、在宅オーディエンスとして視聴した。もう、どれくらい両フェスに参加していないだろうかと、画面越しにライブを観ながら、そんなことを考えていた。
そして、今年もフェス地蔵が話題になっているのを見て、また別のことを考えた。フェス地蔵とは、フェスで特定のアーティストを観るために、何時間もステージ前を動かず、ほかの出演者のライブを観ない人たちを指す言葉だ。
「推しを観に来て何が悪い」という声がある一方で、「だったらワンマンに行けばいい」「前方を占領されると、ほかのアーティストを観たい人が困る」という反発もある。
この問題の大元については長くなるので、今回は割愛する。議論は、いつも「地蔵はマナー違反なのか」という話に着地しがちだ。だが、少し違う角度から考えてみると面白い。
そもそも、私たちはフェスに何をしに行っているのだろう。そして、フェスによって「フェスに行く」という行為の意味は、本当に同じなのだろうか。
たとえば、FUJI ROCK FESTIVAL。もちろん、「このアーティストを観たい」という目的で参加する人も多い。けれども、「今年のフジロックに行く」ということ自体が目的になっている人もいる。
出演アーティストを全部知っているわけではない。タイムテーブルを見ながら、「この人、知らないけど観てみよう」「こっちのステージも面白そう」と、会場を歩きながら音楽に出会っていく。
予定になかったライブが、思いがけず強く記憶に残ることもある。そこには、フジロックというフェスそのものを楽しむ文化がある。音楽だけではなく、会場の空気、自然、飲食、ステージ間の移動、偶然の出会いまでをひっくるめて、フジロックという体験になる。
つまり、フジロックは出演者の集合体であると同時に、ひとつの強いブランドとして成立している。
一方、SUMMER SONICはどうだろう。もちろん、サマソニそのもののファンもいる。ただ、「今年は○○が出るから」「推しが出演するから」「このアーティストを日本で観られるから」といった、出演者起点の動機もかなり強いフェスだと思う。
特に、普段フェスに行かない人が、「好きなアーティストがサマソニに出るから、初めてフェスに行ってみる」というケースもある。つまり、「アーティストのファンがフェスに来る」という構造だ。
これは、サマソニに限った話ではない。
現代の大型フェスは、出演アーティストのファンを新たな観客として取り込むことで、フェスそのものの裾野を広げている。
ここまで書いていて、ふと気づいたことがある。
自分自身も、こんなことを言っていたのだ。
「来年はフジロック30周年だから、久しぶりに行こうかな」
そして、
「来年のサマソニ、マキシマム ザ ホルモンが出るなら、千葉だし久しぶりに行こうかな」
……あれ?
これ、まさに今話していることそのものではないか。
フジロックについては、「30周年だから行きたい」。
サマソニについては、「ホルモンが出るなら行きたい」。
同じ「フェスに久しぶりに行こうかな」という気持ちでも、心が動くポイントが違う。
自分自身が、無意識のうちに、フェスそのものに価値を感じる場合と、出演アーティストを入口にする場合を使い分けていたのだ。
これには、自分でも少し笑ってしまった。
ものすごく単純化すると、フジロックはフェスそのものが、サマソニは出演アーティストが、来場の強い動機になりやすい。もちろん、これは完全に二分できるものではない。フジロックにも特定のアーティストを目当てに来る人はいるし、サマソニにも毎年楽しみにしている「サマソニファン」はいる。
それでも、自分自身の「行こうかな」という気持ちを分解してみると、フェスのブランド力と出演アーティストの集客力は、別の種類の力なのだと実感する。
ここからフェス地蔵の話につながる。
アーティストのファンをフェスに呼ぶ。ファンは、そのアーティストを目当てにチケットを買う。そして、できるだけ近くで観たいと思う。
当然の心理だ。
フェス側からすれば、そのアーティストの人気によってチケットが売れる。出演アーティスト側からすれば、新しい観客にライブを届けられる。
つまり、「推しを観るためにフェスへ行く」という行動そのものは、フェスの集客という面から見ても、決しておかしなものではない。
むしろ、フェスにとって重要な動機になっている。それなのに、現場では「フェスなんだから、ほかのアーティストも観ろ」という価値観と衝突する。
ここに、ちょっとしたねじれが生まれる。
地蔵側の言い分は、シンプルだ。
「私は○○を観るためにチケットを買った」
「○○を観ることが目的なのだから、その時間まで待っていて何が悪いのか」
これは、ある意味では筋が通っている。特定のアーティストを目当てに参加すること自体を否定する理由はない。
問題になるのはその先だ。
たとえば、あるステージで、Aというアーティストを観たい人と、Bというアーティストを観たい人がいるとする。
Aのファンが、Bの出演中から前方を埋めてしまったら、Bを観たい人は前に行けない。
ここで問題になるのは、「Aのファンであること」ではない。
「自分の推しを観るために、ほかの観客の鑑賞機会まで奪ってしまうこと」だ。
これはかなり重要な違いだと思う。
「推しだけを観るな」という話と、「推しを観るために他人の場所まで占有するな」という話は、同じではない。
フェスは、単なる「ライブの寄せ集め」ではない。どんな音楽を選び、どんな場所で開催し、どんな観客に来てもらいたいのか。そして、どんな過ごし方を提案するのか。
それらが積み重なって、「このフェスらしさ」が生まれる。そして、その「らしさ」が強くなればなるほど、フェスそのものがブランドになる。
ブランドとしてのフェスには、「このフェスに行きたい」という動機が生まれる。一方で、出演アーティストの話題性が集客の大きな柱になれば、「このアーティストが出るから行く」という参加動機が強くなる。
どちらが良い悪いではない。ただ、そこから生まれる観客の行動は変わってくる。
ここ数年で、音楽の楽しみ方そのものも変化した。
「音楽を聴く」という行為だけではなく、「推しを応援する」「推しに会いに行く」「推しと同じ空間にいたい」という感覚が、エンターテインメント全体に広がっている。
フェスも、その影響から逃れることはできない。むしろ、フェスは「推し活」と相性がいい。
複数の人気アーティストが一日に集まる。普段なら遠征しなければ観られないアーティストが、同じ場所にいる。フェスが「音楽好きのための場所」であると同時に、「推しに会える巨大イベント」にもなっていく。これは、フェス文化にとってかなり大きな変化だと思う。
では、どうすればいいのか。
私は、「どちらかを排除する必要はない」と思っている。
推しを観に来た人がいていい。
フェスそのものを楽しみに来た人がいていい。
知らないアーティストを発掘したい人もいていい。
ただし、同じ空間を共有する以上、最低限のルールは必要になる。
「推しを観たい」という自由と、「自分もそのステージを観たい」という自由。どちらも尊重されるべきだからだ。
フェス地蔵を、「マナーの悪いファン」だけで片付けてしまうと、問題の一部分しか見えない。
なぜ、その人はフェスに来たのか。なぜ、そのアーティストのファンが集まるのか。なぜ、フェスそのものを楽しむ人と、特定のアーティストだけを観たい人が同じ場所にいるのか。
その背景には、フェスのブランド戦略と音楽市場の変化がある。地蔵は、単なる迷惑行為の象徴ではなく、フェスの構造が変化していることを可視化する存在なのかもしれない。
結局、考えたいのはここだ。
フェスは、音楽ファンが未知の音楽に出会う場所なのか。それとも、人気アーティストが一堂に会する巨大ライブイベントなのか。あるいは、その両方なのか。
おそらく答えは、どちらもだ。
そして、フェスが巨大化すればするほど、その両方を同時に成立させることが難しくなる。フェスそのものがブランドになっている場合と、「誰が出演するか」が大きな集客力になっている場合。
その違いを考えると、いわゆるフェス地蔵問題は、単なる観客マナーの話ではない。フェスという文化が、どこへ向かっているのか。その変化を、私たちに見せてくれている現象なのだと思う。
「推しを観に来て何が悪い?」
その問いも正しい。
「だったら前を占領しないでくれ」
という問いも正しい。
そして、私自身も気づかないうちに、「30周年だからフジロックに行こうかな」「ホルモンが出るならサマソニに行こうかな」と、それぞれ違う理由でフェスに心を動かされていた。
だからこそ、単純に「地蔵が悪い」「フェスファンが正しい」とは言えない。
私たちが「フェスに行く」と言うとき、そのフェスは何を指しているのか。フェスそのものなのか、出演アーティストなのか、それとも、その両方なのか。
この問いから考えてみると、フェス地蔵問題は、単なるマナー論ではなく、音楽を取り巻く文化とビジネスの変化が見えてくる。
フェスは、音楽を聴く場所であると同時に、ひとつのブランドでもある。そして今、そのブランドの中に「推し活」という大きな文化が入り込んできている。
「誰を観るか」だけではなく、「なぜ、そのフェスに行くのか」。そこまで考えてみると、フェス地蔵をめぐる景色は、少し違って見えてくるのではないだろうか。
こんなことを言いながら、現地参加したらそんなことはすっかり忘れて楽しめると思う。